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大人という偽善者、子どもという正直者

忘れた頃にやってくる。

YFです。

画像を扱うのが面倒なので、ワールドワイドなネタはもう少し先ということで。



さてさて、昔話を少々。

私は小さい頃、「大人」になるのが嫌だった。大人になんてなりたくなかった。

厨二病の末期患者だったとか、永遠の16歳だったとか、17歳教に入信していたとかではない。

私が「子ども」だったころに接した「大人」は、常に高圧的で権威主義的だった。

それに、そもそもなにをもって「子ども」と「大人」を区別するのか解らないでいた。

物心ついた頃には既に確立されていた上下関係に辟易としていたわけである。

ただ、このささやかな反骨心は「子ども」の立場から主観的に感じたものであり、論理的なものではない。

今となっては、本能のままに行動できないことに対するフラストレーションを、

「大人」に対する批判という形で明確にし、正当化しようとしていたように思う。

でもそれは単なる憎悪ではなく、「子ども」だった自分なりに双方の関係性ないし、

自らのおかれている状況を理解しようと努力した結果だったと思う。

当時の私は年功序列という概念も理解はせずとも知ってはいた。

実際、今ではどちらかといえば行動に伴う体験の蓄積が人間の形成の基盤になっていると思う。

その点、生を受けている時間の長い「大人」ほど、物事の真理に近いと言える。

しかし、文化や価値観が多様化している現代社会では、

従来の年齢差を基準としたヒエラルキーの構築は再検討する余地があるように思う。

さて、何が書きたいのかわからなくなってきたので暫し休憩......











































なぜ今更こんな昔話をするのかというと、自分の置かれている大人社会が実に子どもっぽいからである。

いじめ、ねたみ、不干渉。

負の要素をどれだけ溜め込んだらこんな腐った人間関係が形成されるのかわからないほどに淀んでいる。

しかも、長年培ってきた知識や経験に基づいたそれら諸行為は、嫌な意味で洗練されている。

これが私が嫌悪した「大人」の実態であるなら、私はやはり「大人」になんてなりたくはない。

「子ども」のように、本能と感情のおもむくままに、ありのままに生きていたいと思う。

しかし、これにも少々問題がある。

人間とは然るべく理性的でなければならない。

人間と禽獣を隔てる決定的な要素として、

その行動原理が理性的か本能的かで判別することができるとなにかの本で読んだことがある。

つまり、自分の感情や欲求を抑制できない「子ども」は人間というよりかは、獣に近いということである。

獣になってしまっては議論の余地がない。

ただし、「子ども」の本能や感情的な行動は実に潔い。

なによりも自らの意思決定により、忠実に行動している点においては、

「大人」の淀んだ社会性に飲まれた行動規範よりも幾分痛快である。


結局のところ、「大人」や「子ども」などどうでもいいのかもしれない。

一人の人間としての思いを大切にしたい。

自らの五感で感じ得た情報を信じ、あらゆる事象に疑問を抱く。

本能に基づき、理性というフィルターを通した上で感情を上乗せした率直な考えを持っていたいと思う。

ざっくりまとめれば、そういう人間でありたいと思う。

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