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二つのリアリティ

最近有難うではなく、Thank youと反射的に言ってしまう。YFです。


時々、自分が別の次元で平行して生きている。

そんな感じを受けることはないだろうか?

私の場合、楽しい旅行が時たま、別の次元での出来事のようの感じられることがある。

今回卒業研修旅行ということで、2月の11~19まで馬来西亜に30名ほどで行ってきた。

三日目に電球の破裂音と共に部屋の電気が完全に遮断されたこと以外快適な旅であった。

そして、帰国した翌日に皆が、「現実に戻ってきた」とこぞって言っているのを聞き、少し違和感を感じた。

確かに、文化の違いなどにおける現実味を帯びない馬来西亜での体験は非現実的であり、

学校の生活は往々にして現実として認知されるべきだ。

しかしながら、原理的にはどちらもやはり現実である。

これを日常と非日常と表すと、また違った見方が生まれる。

毎日の学校生活を日常と仮定し、馬来西亜での生活を非日常とする。

自らの体験を観念的に表すために、日常を基本概念として認識し、それに反する行いを非日常として説明する。

この二元論的解釈は日々の生活においてしばしば行われ、

日常は非日常を、非日常は日常を肯定し、人は皆非日常に感化されて生きている。

そしてこの非日常という概念は、現代人特有のものであり、転じて言えば、まさしく私のような都会人のほうが、

より非日常を含んだ生活をしているものである。

私の非日常とは、自然を相手にしたレジャーがその大半である。

しかし、自然を相手に生きてきた歴史のほうが遥に長く、
都市での生活のほうがよっぽど非日常性を含んでいることになかなか気づかない。

つまり、私にとって現実的と非現実的、或いは日常や非日常という概念は、

自らの生活を証明するためのものであり、同時にすべてのものは現実的なはずである。

私の日常があるように、馬来西亜の日常も存在し、互いに干渉しあうことで相互作用として非日常が生まれる。

私はこの瞬間に、別次元の新たな自分の存在を感じるのである。

そしてこの感覚は私の価値観に一定の変容を齎す。

この価値観の変容の瞬間こそ、私の最も好きな一瞬であり、

この瞬間を求めて私は旅行へ行くのだろう。



おまけ(あっちで撮ってきた写真)

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                               ↑私の友人二人。
勝手にのっけてすまん。
でも、顔出てないからいいよね?w

次回も引き続き撮りためたあっちでの写真の紹介でもしましょうか。

一応これ、写真ブログってカテゴリーで作ったのでw

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